「長崎 旧浦上天主堂 1945-58 失われた被爆遺産」高原 至…写真/横手 一彦 …文/ ブライアン・バークガフニ …英訳/2010.04.08/岩波書店 を読んだ。
これは太平洋戦争における原爆投下により被爆、崩壊した旧浦上天主堂の廃墟の解体を記録した写真集である。
その記録が呼び起こす感慨は一言で表すのは困難だ。被爆に至る歴史の流れの中にその悲哀が見える。
江戸時代のキリスト教弾圧下、その末期、大浦天主堂の献堂により、隠れキリシタンがその信仰を再びこの地に表明した。「切支丹の発見」1865年。
しかし、明治初期に至るまで日本はキリスト信仰に対する憎しみを捨てなかった。自分の意志では永遠に捨てなかった。外圧によって止めさせられた。1873年、禁教令が解かれた。
踏み絵が行われ血が流された正にその土地が買われ、そこに旧浦上天主堂が献堂される。1914年、日本人の手による悲惨なる行為の場の上にそれは建った。
そして太平洋戦争、1945年8月9日原爆投下。浦上天主堂は被爆し廃墟となる。悲惨なる人間の行為により崩れ去る。
その後、この天主堂に対して、悲劇の記念碑として行政側の保存の動きなどもあった。しかし、その廃墟は1958年に撤去され、翌1959年に新しい浦上天主堂が完成する。この建築はキリストの教会として機能する為、再建される必要があった。それは保存より優先された。保存はこの日本の地の意志。再建は教会の意志。
一体、この歴史の流れを前に何が私に言えるだろう。保存すべきだった、という思いは、教会の使命を考えると打ち消される。だがその思いの波は寄せては返し複雑なうねりに飲み込まれる。
写真は何を語るのか?
焼けただれたイエスや使徒達の像の数々は非常に衝撃的だ。まるでそれが生きていたかの様…否、まだ生きているかの様に、血にまみれたその像が意志を持ち語りかけてくる、原爆の悲惨さを。
いや、でも、それはただの彫刻なのだ。その錯覚の魔力を振り切ると真実に到達できる。もちろんそれは悲惨さの記録であることには変わりはない。だが、しかし大きな違いがあるのだ。
教会建築を通して語られるべき真実はイエス・キリストの血の意味である。
選択はどうあるべきだったのか?
最適の解が何かは私にはまるで分からない。少なくとも生きたキリストの教会がその使命を果たす事ができれば、そんな事はどちらでも良いのだ。教会建築とはそういうものだ。